※「ふりかえろう わたしたちの先輩の足あと」のページは
高津小学校90年記念副読本をもとに作成しました。
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すずきばんみつ
鈴木万満
江戸時代の中頃になると、町人文化の発達にともない庶民のあいだにも「読み・書き」が必要となってきました。
溝口村中宿(なかじゅく)の床屋(とこや)万満は近くの子供たちを集め、熱心に読み・書きを教えたといわれています。宗隆寺(そうりゅうじ)境内(けいだい)の万満の墓には、「治世(じせい)」の文字が法名にあることから、世の中のためになる仕事をした人であったと考えられます。また、墓には「惣筆子中」とあることから、よい先生であったと思われます。
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いせいどう むらたさんうえもん きむらけいさい
以誠堂(村田三右衛門)と木村敬斉
文科省の資料によると、溝口に寺子屋ができたのは、1830年(天保元)年で、村田三右衛門が以誠堂を開設したと記されています。
以誠堂は、先生2名(男1、女1)児童75名(男子40、女子35)で、教科は算術・読み・書き・礼でした。
以誠堂に、木村敬斉という先生がいました。この人は、慶応4年(この年の7月に明治になります)の上野の戦いで敗れた彰義隊(しょうぎたい)の一人で、男の子をつれ二子の渡しから溝口宿に入り、以誠堂の先生になりました。後に、男の子は村田姓(せい)となり、溝口学校(現在の高津小学校)の先生になりました。
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上田忠一郎と民権運動
明治時代中頃、全国的に拡がりを見せた自由民権運動は、高津の地にも広まってきました。多摩自由党の中心人物である石坂昌孝と共に活動した人に、橘樹(たちばな)の上田忠一郎がいました。
上田忠一郎は、鈴木直成らとともに橘樹郡の自由民権運動の中心となって活動し、明治13年には、神奈川懇親会の幹事としても活躍しました。
こうした懇親会によって「自由民権」「国会開設」の要求運動は、さらに活発に展開されました。
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林 喜楽(きらく)
七面山の上に「林喜楽頌徳碑(こうとくひ)」があります。林喜楽は、1880年にうまれ、27歳の頃、華道の師範(しはん)となり、経師屋を営んでいました。自由民権運動が起こると、理論家の上田忠一郎に対し、行動家の中心として活動しました。多くの人との交流があり、勝海舟(かつかいしゅう)に溝口神社の幟(のぼり)に揮毫(きごう)を頼んだ人です。
また、考古学に関心を持ち、溝口近くの古墳や遺跡からの出土品を大学の研究室や博物館に寄贈し「溝口の喜楽」の名は、全国に知れ渡ったと言われています。地域の人たちからも「喜楽さん」と慕われていたそうです。
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内藤慶三
名工といわれた溝口の石匠(せきしょう)内藤慶雲の長男として1897(明治30)年に生まれました。高津小学校同窓会誌「光」に影響され、文学少年として成長し、青年団員の時は、文芸面で活躍しました。家業は弟にまかせ、俳人として一生を自由に暮らしました。
岡 栄一
久本の旧家岡信一の二男として1903(明治36)年に生まれました。高津小学校卒業後卒業後、芝中学校に進み「層雲」に入り荻原井泉水の指導を受けるようになりました。
このころ、高津俳壇に新傾向派の作風をつたえたといわれています。
大正13年に同人誌「銀筋」を発行しました。昭和3年に生家で医師として働き、昭和7年、世田谷で独立開業しました。その後も俳句作りに活躍しました。
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大貫雪之助
旧家大貫家の長男として1887(明治20)年に生まれました。東京帝国大学在学中から「晶川」と号して詩や小説を発表していました。中学校時代からの友人、谷崎潤一郎とともに明治43年「新思想」の同人になり、島崎藤村門下の一人として将来を期待されました。
しかし、29歳の若さで急死してしまいました。お墓は二子の光明寺にあります。
トルストイ原作「灰色の兎」、ツルゲーネフ原作「煙」の英訳本を翻訳しました。
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大貫カノ(岡本かの子)
雪之助の妹で、1889(明治22)年に生まれました。兄雪之助や谷崎潤一郎の影響を受け、文学少女として成長しました。与謝野晶子に師事し、「明星」「スバル」誌で歌人として認められるようになりました。岡本一平と結婚し、岡本かの子の名で作品を発表しました。歌集「かろきねたみ」小説「鶴は病みき」「生々流転」などがあります。明治44年に画家や彫刻家として活躍することになる岡本太郎を生んでいます。
※写真は二子神社境内の岡本かの子文学碑
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大屋重栄
溝口大屋彦太郎の三男として1905(明治38)年に生まれました。少年時代から俳句・短歌にしたしみ、短歌誌「白埴」を発刊しました。
大屋正吉
重栄の弟で、1908(明治41)年に生まれました。兄の影響もあり、はやくから俳句・短歌にしたしみ、歌集「氷雪」を発刊しました。歌人協会の会員、日本歌人クラブの幹事もしました。
龍門(りゅうもん)茂代子
1898(明治31)年に鎌倉で生まれ、1918(大正7)年、宗隆寺32世龍門寺通存と結婚し、高津に住むようになりました。女流歌人として活躍し、その歌は「現代短歌集成」(東京出版)に選ばれました。
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上田喜太郎
溝口五香屋上田家に生まれた。(生年月日不詳)少年時代に、小菅香林(こすげこうそん)《山梨県出身の漢学者(かんがくしゃ)。徳川家の御家人(ごけにん)であったが明治になると大蔵省に勤めた。療養のため溝口に移り住み、上田忠一郎らと知り合った。》 から漢学を学び、さらに独学で勉強し、高津小学校の教師になりました。喜太郎は後に国文学者になるほどの勉強家でした。
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上田久七と溝口演劇部
1901(明治34)年に生まれました。(喜太郎は久七の兄です)演劇少年久七は、演劇を通して青少年の正しい生き方とは何かを求めるようになりました。久七の想いは多くの人に理解され、高津村青年団の演劇活動としてもりあがりました。やがて、農民文化運動として全国に注目されるようになりました。公演は、高津小学校の講堂をつかっていました。
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浜田庄司
1894(明治27)年、母の実家である溝口太田(おおた)家で生まれました。生家は菓子の老舗(しにせ)大和屋(やまとや)です。東京に住んでいましたが、健康上の理由で大和屋から高津小学校に通うことになりました。
絵の好きな子で、二ヶ領用水(にかりょうようすい)の大石橋に腰をかけ、よく絵を書いていたそうです。
1924(大正13)年以降、栃木の益子(ましこ)に住み、手仕事の魅力にひかれ新しい陶磁器(とうじき)作りに努力しました。
その結果、「益子焼」「浜田」の名は、世界に知られるようになりました。
宗隆寺にある浜田庄司の墓には、その人がらと業績をしのんで、いまもたくさんの人が訪れています。
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上田恒三
高津尋常(じんじょう)高等小学校卒業。中国で終戦を迎えた後、シベリアに抑留された上田さんを支えたのは「何としても故郷の溝口に帰るのだ」という思いだったそうです。
昭和25年に帰国し、その目に「表面的には変わっていないが、どこか違う」と映ったことが郷土史研究のきっかけとなりました。
「高津村風土記稿」「百姓たちの明治維新~激流」などの歴史書を自費出版、平成13年に川崎市文化賞に輝きました。
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